立本寺縁起

◆立本寺縁起

 具足山立本寺は日蓮宗八本山の一。京都の法華系本山十六ヶ寺の内、大本山妙顯寺・本山妙覚寺・本山立本寺を三具足山といい、いずれも日蓮聖人の孫弟子にあたる日像上人(龍華樹院)により開山される。
 日蓮聖人ご入滅にさいし京都布教の命を受けた日像上人は、いく度も都を追放されながらも民衆救済の使命に燃え、暦応4(1341)年、四条の櫛笥に妙顯寺を建立するが叡山僧兵によって破却され、明徳4(1393)年、日実上人がその地に再建、「本寺を立てる」という意味を込め「立本寺」と改名した。
 しかし天文5(1536)年、再び僧兵によって破却され、いち早く再興されたものの、文禄3(1594)年、秀吉の命で京極今出川(寺町今出川)に移転。広大な寺域を得たが、宝永5(1708)年の大火で焼失し現在地に移転、今に至る。


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◆つぼ日審上人
瞬時の不信も許さない
絶対的な題目信仰日審上人

 江戸時代初期に霊鷲院日審上人(りょうじゅいんにっしんしょうにん)という人があります。上人の生まれについては、大そう珍しく不思議なことがありました−。  京都に江村久茂(大本山法華経寺(ほけきょうじ)28世・日養(にちよう)上人は久茂の子。親戚に江村專齋という名医がある)という人がおり、その奥方は子供を身ごもっていました。久茂も楽しみにしていましたが、生まれるのも間近く、奥方がわずかな病気がもとで急に亡くなってしまったのです。久茂の嘆きは一方でありませんでしたが、いたし方ありません。お寺にもって行き、お葬式をすませて墓地に葬(ほうむ)りました。  雨がシトシト降る暗い晩でした。寺男のおじいさんが用たしに出て、帰りに墓地を通り抜けようとすると、どこか地の底から、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。ゾォッとしたおじいさんは「お化けが出たあ」とびっくり仰天、手にした荷物も、ちょうちんも捨てて、暗い墓道をこけつまろびつ寺へ飛んで帰り、このことを上人に話しました。上人が、おじいさんにつれられて墓地へ行くと、たしかに赤ん坊の泣き声がかすかに聞こえます。「あ、これはひょっとしたら江村さんところの新仏(あらぼとけ)かも知れんぞ」と恐がるおじいさんをうながし、そこへ行って見ると、どうもこの塚から聞こえているようです。大急ぎで塚を堀り、埋められた壷のふたを取ると泣いている赤ん坊が見えました。慶長(けいちょう)4(1599)年6月2日、日審上人はこうして生まれた− と広く伝えられています。上人の花押(かおう)が壷形に書かれているのはこのためであるといわれ、上人の書かれたご本尊(ごほんぞん)は日本のどの地方でも安産守りになっていて、お産をする婦人は上人のご本尊をかければ安産することができるというので、今でも「壷日審」と崇められています。  日審上人は小さい時から非常に聡明(そうめい)で、京都や下総の宗門の学校(檀林)(だんりん)に学んで30余歳で京都本山本圀寺(ほんこくじ)にある檀林の化主(けしゅ)(校長になり、多くの学生を育成しました。上人が学問に優れていたことはいうまでもありませんが、また弁舌に長じ、西は九州方面、東は関東奥羽に及ぶ日本全国を遊説し、9万余人の人々が信服して受法しました。その説法の回数2万余座、ご本尊を書き授けた数は10万余幅に及び、人々は「富楼那日審」と尊称しました。仏さまの十大弟子の一人に説法第一と称せられた「ふるな尊者」の名をおくったわけです。  上人は49歳の正法(しょうほう)4(1647)年に京都、本山立本寺(りゅうほんじ)20世の貫首(かんじゅ)となりましたが、近衛信尋(後陽成(ごようぜい)天皇の皇子(おうじ)で近衛家養子)の招請によって法華経を講じました。このとき後水尾(ごみずのお)上皇も親しく、この講筵(こうえん)に列なられ、その後も二条康道(摂政)の館に幸し上人を講じ、再び法を開かれましたが、叡感あって「いまや仏法において疑問がなくなった」と仰せられ、立本寺に園林堂(おんりんどう)が八条宮智忠(はちじょうのみやとしただ)親王によってたてられたとき、ご辰筆「園林堂」の三大字を賜ったほどでした。もって上人の行徳が上下に及んだことが知られましょう。また、上人は寺の傍に老父母を招き毎日見舞って孝をつくしました。上人の常々の言葉に「もし私が仏につかえ、親に孝行ができぬならば、仏を捨てて親につかえよう」と、その至孝の言行をたたえぬ者はなかったといいます。寛文(かんぶん)6(1666)年3月15日、68歳で入寂(にゅうじゃく)されました。
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◆住職経歴紹介

上田 日瑞(尚正)

  昭和16(1941)年松ヶ崎で誕生。洛北高校から立正大学文学部社会学科昭和38年卒業。 学生時代は、硬式野球部(主将)に所属し、東都六大学野球リーグで活躍。今もスポーツをこよなく愛す。 小学6年に得度。僧風林3回幼少時に入林。昭和41年11月1日〜2月10日までの日蓮宗大荒行(遠寿院大荒行堂)に初加行。昭和43年に第再行(身延山大荒行堂)、昭和48年に第参行(身延山)、昭和58年に第四行(法華経寺大荒行堂)、昭和61年に第五行(法華経寺)を成満し祈祷相承免許皆伝。 京都日蓮宗青年会委員長、京都修法師会会長等々を歴任し日蓮宗宗会議員(京都選出)を四期、日蓮宗開教室長三期、日蓮宗伝道部長・日蓮宗宗会議長等々要職をつとめさせて頂きました。
  信仰・人生相談・家相・地相・方位などいつも大勢の人が訪れられています。
■一口説法


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