寺報

◆大雪が降った日の立本寺境内

雪化粧に包まれた、境内・・・・

方丈

庭園

庭園

庭園


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◆京都新聞の紙面より

市名勝・龍華庭園装い一新へ

修復がスタートした立本寺庭園で不要な土を採取
する学生ら

 龍華庭園は江戸末期の1850年までに作庭された。客殿の西と南にL字型に広がり、随所に築山を設けた特徴的な枯れ山水。
 寺院の人手不足から管理が行き届かず、枝が伸びすぎたり、鳥などが持ち込んだ種子から発芽し育った樹木が多く、当初の面影は失われている。修復を請け負う京都造形大学の日本庭園研究センターが昨年度調査したところ、現存する約300本のうち7割以上は1985年の名勝指定後に侵入した木であることが分かった。
 同センターでは、「修復には一般の人にも多くかかわってほしい」という寺側の意向を受け、芸術学部環境デザイン学科の学生を交え修復や活用の方法を検討。「いらなくなった樹木や腐葉土を捨ててしまうのはもったいない」という学生の意見を取り入れ、再利用に乗り出した。
 この日は学生や卒業生ら7人が、明らかに後世に堆積したとみられる庭園隅の腐葉土約150キロを袋に詰め、花壇づくりによる園芸療法に取り組む亀岡市大井町の知的障害者更生施設「かしのき」へ運んだ。
 樹木や腐葉土は境内の一角に貯蔵スペースを確保し、ほかの寺院や施設、住民から再利用の申し出があれば適宜対応する。京都市の現状変更の許可を待って、11月ごろから本格修復に着手、平成18年夏に一般公開を目指す。
 学生の1人、山本晶子さん(24)は「修復を通じ、地域住民や子どもたちと寺との結びつきがもっと強くなってほしい」と話している。多くの人のご参加をお待ちしています。


町衆の支持幅広く江戸期の立本寺(上)寄進京都造形芸術大生が調査大檀那は鳥取藩御用商人

お寺と町衆の菅家を探る京都造形の
芸術大学の調査に参加した(左から)栗本助教授と三島さん

京都上京区の立本寺で、京都造形芸術大(左京区)学生の進めていた近世の寄進札などの調査結果がまとまった。長期間多額の寄進を続けた大檀那の子孫を確認し、大名家や網野村(京丹後市)の商人ら幅広く支持を集めていた様子が浮き彫りになった。 立本寺は日蓮の孫弟子日像が1321年に建立した妙顕寺に始まり、四条櫛笥(中京区)に再興された本応寺が同寺に改名したと伝えられる。豊臣秀吉の命令で寺町今出川(上京区)に移り、1708年の大火で焼失、七本松通沿いの現在地に移った。
 京都造形芸大の歴史遺産学科で町衆と寺院の関係を探るため、一昨年から3、4年生延べ30人が寄進者の名や金額を記した寄進札、過去帳、仏像などを調べた。
 寄進札は17世紀末以降の181枚あり、最も多く寄進したのは「清水氏」という町衆で15枚あった。本堂再建に着手した1739年の前年には「銀一貫目」の大金を納めるなど、代々寄進を続けていた。
 学生は清水氏の子孫が大阪府内に住んでいることを確認し、聞き取り調査も行って、鳥取藩の御用商人で、京の呉服などを藩に調達した「御買物役」であったことが分かった。
 さらに津藩(三重県)分家の名張藤堂家の関係者の記録や19世紀前半の天保期には網野村本覚寺の檀家の商人18人が連名で寄進した記録もあり、地域や身分に関係なく支持を集めていた様子がうかがえるという。
 指導した栗本徳子助教授は「なまの資料を通じて、学生自身の手で江戸時代の町人の実像に迫ることができた」と評価。調査を卒業論文にまとめた卒業生の三島愛さん(22)は「今よりずっと密接だったお寺と町衆の関係がうらやましい」と話している。

京都新聞(夕刊) 2005年(平成17年)10月3日 月曜日 より抜粋


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